ガーデンはまだみつかっていない

さるところで気付きがあった。

身体にたくさんの痣があった。顔に大きな痣があった。恥じることなく大勢の前で堂々と働いている女性たちがいた。顔の一部に浮き出た青い血管とか一般的な規格をはずれた顔とか、他人の批判する声に過敏になっていた自分の卑屈さ、ちっぽけな心を思い知らされた。

ガーデンはまだみつからない。
過去のあいつなら、私が自分の内側の子供を捜すことに理解と協力を惜しまなかったかもしれない。面倒だと逃げるかな。薬飲めとか。残念なことに今は会うこともないけれど。あいつ自身の内側の子供も時々現れていたことを今思い出す。

一人ではなかなか難しいと思う。
いや、それとももう充分に自分の内側の子供と付き合ってきたのだろうか。

再度借りてきた「ガーデンを探して」を読んでいると、まだまだだと確認する。

私はわたしの中の子供を大事にしてはいない。
 
心の底から素直に幸福だと思ってはいない。

まだまだ満たされてなどいない。

私は私の中の子供を愛していない。

生きる価値、何かを成し遂げる価値のある人間だと、私はわたしの中の子供を認めていない。

他人の負の発言ばかり耳に届く。そしてその言葉を自分の言葉のように受け入れつつある。ということは、私は自分自身を批判の言葉に値する、劣った人間だということを受け入れようとしている。

内側の子供が大好きなことで無邪気に笑い喜ぶことを規制している。それは大人らしくないから、恥ずかしい姿だからと、私はわたしの中の子供を押さえつけている。

とはいえ、現実に時折聞こえてくる負の批判の言葉は私とわたしの中の子供をかなり傷つけているのは確かなことだ。怒っても、にらみ返しても、機会あれば反撃してもかまわないのだけれど、それは事態をさらに悪化させることだと知った大人の私は、無表情に受け流す術を覚えつつある。傷ついているという感情をも、何も感じなかったことにしようとつとめながら。いつまでもその傷を癒すことが出来ないまま、自信を無くし、視線をそらし、歪んだ表情のまま人ごみを歩く私がいる。

ただ、私以外の人は言う。気のせいだよと。そんなことを言う人はいないでしょうと。そして、わたしの前で言う。目の前の他人のあらさがしの言葉を。その他人は私でもあることを誰も気付こうとしない。

この先の経済的不安よりも、いま現在の日々、収入のための仕事もせず、最低限の家事とほんの少しの仕事探しと自分探しの読書と、運動代わりの移動以外に何もすることが無い。何をすべきか考えつかない。ただ生きていればそれでいいと思うならそれでいいのだろう。けれど、なんだかとてもぽっかりと時間空間が浮いている。

ただ何となく、ひきこもりの人たちの気持ちが理解できるような気がしたり。

外の世界は、他人の寄り集まる場所は、確かに恐い。傷つくことや否定されることが恐い。誰とも違う自分に気付いて更に自信を無くすのが恐い。楽しそうな人々の中で浮いてしまう自分が恐い。

否定しているのは自分自身だということにも気が付き始めた。

行きつ戻りつ。

そうしてまた進め。

子供の私の思うまま。やりたいことをすぐやる。今やる。ごまかさない。否定しない。

いっしょにガーデン探しができるパートナーがいるといいらしいけど。今はいない。

子供の頃も、何していいかわからなくて毎日泣いてた事があった。つまんないとわめいていた。何かを、大好きなこと、やりたかったことを禁じられたのだろうか。やりたいことが何も無かったのだろうか。甘えを受け入れられなかったための反抗だったのか。ただ、辛かったのは確かだ。その後に変化したんだったかな。成長?学校が楽しくなったんだったかな。

理解できないのは自分自身だ。

私がわたしの親なら、どうするだろう。

優しく暖かく見守るだろうか。良き理解者となるだろうか。苦手な子供。やっかいな子供として避けるだろうか。神仏に祈るだろうか。求める物をすべて与えるだろうか。手当たり次第何かを与え続けるだろうか。それとも無視・・・

今のわたしには良くわからない。

ただ、旅がしたい。バイクにも乗りたい。働きたくない・・・

多くの人と同じでないと間違いだと思い込んでいるのは私自身なのかもしれない。例え自己都合の成り行き上の無職だとしても、与えられた自由時間に喜んで好きなことを存分にやるのが無邪気な子供だ。罪悪感に苛まれてやりたいことのほんの少ししかできずにいるのは他人の目を気にしている大人の仕業だ。

山奥の母の生家で過ごした夏、雨ガエルを捕まえてビニール袋にたくさん詰め込んでいた私は何をしたかったのだろう。意味など無いのだ。緑色の小さなカエルを探して捕まえてどれだけいっぱいみつけたかを楽しむためだけにそうしていたのだ。気持ち悪いくらいたくさんビニール袋にたまったら、一斉に放すのだ。気持ち悪いから。

ホタルを蚊帳の中に放してファンタジーの中で眠った。翌朝、綺麗でも何でもない虫が無残に死んでいた。

残酷で無意味で理解を超えている、それが子供の遊びだ。

そんな子供の相手をしてくれそうなのはどんな人物か。ふと心に浮かんだ。年末に出会った人たち。暖かそうな家でみんなで暮らしていた人たち。大人なのに、無邪気さを失っていない彼らのこと。

ダンボールに絵を描く事が大好きだった。箱に入って基地ごっこをするのが大好きだった。丸太の上に座ること、かんなくずにまみれること、屋根の上にのぼること、探検、泥んこ遊び、裸足で駈け回ること、シール集め、文通、手芸、漫画、テレビ、恐竜図鑑や人体解剖図を毎日のように開いて見ること、犬と過ごす時間、ネコをからかうこと、祖父母と話をすること、大好きだったいろんなことを私から奪ったのは誰?それはなぜ?自分で飽きてしまったの?いつ何をきっかけに大好きだったことをやめてしまったのか。

記憶があまり、無い。
ただ、学校、集団、そういうものが大きく私の前に立ちはだかっていたことは確かだ。私の自由を奪ったことも。家庭が許したなら、私は確実にひきこもりになっていたはずだ。そして同時に、やわらかくてもろい、何か大事なものを失わずに済んだのかもしれない。

しつけという名の暴力が普通に存在していた。叩かれまくり、ひきずられ、ランドセルといっしょに外に放り投げられた。行く場所は学校しかなかった。サボリという行き場所を知っていたら良かったのに。

夜更かししようかもう寝ようか・・・わたしの中の子供に聞いてみよう

眠いから、寝る。


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