奇跡の反対語は?

はぁ・・・
あと数十分で奇跡は起こるだろうか・・・

なんというタイミングか。
昨日まで横線入りでもなんとか見ることができていたTVが、朝スイッチを入れたら突然真っ暗で音声は砂嵐。今夜だけは見たい番組があったのに・・・「あしたの喜多善男」が最終回なのだ。

今日は求職活動は部屋の中でPCのみ。
昼間再びTVをつけてみたら真っ暗。音なし。ためしにずっとそのままにしておいたら、おー、何気に画像が映りだし、微かに音声も聞えるような・・・
もったいないから(なにが?)夜のためにすぐ消した。

手作りこってりナポリタンを作っている間、真っ暗TVをつけておいた。今、画像が何となく見え始めていて、音声は砂嵐で途切れながら微かに聞えている。

奇跡の反対語は何だろう。ネットで調べても「必然とかじゃだめですか?」という個人のご意見が上位に出てきて調べる気が失せてしまった。たぶん、必然あたりが私も妥当だと思う。

すでに寿命がきて数ヶ月?いつか来る日が来ただけのことなのだ。その日がきたらその日からTV無しの生活に突入する覚悟はできていたつもり・・・だが・・・たまたまはまっていたドラマの最終回の日なんて・・・奇跡という言葉は大抵良い事が起こったときに使われるけど、良くないことにはなんて言ったらいいんだろう。「必然的」ではないよな・・・「不幸にも」かな?

ああ、音声がときどきはっきりくっきりしてきた。そしてまた砂嵐の音。
人生もまた同じ。そんな気がする。終わりは必然的に、それもふいにやってくる。


墓参りと吉方の旅の効果は・・・ジンマシン改善と母からの援助という形で現れたらしい。メールが来た。ご先祖さまにしても、今のわたしの状態を助けるには”お金”というものが一番だと判断するしかなかっただろう。母の愛はお金というものでしか表現されないなどと恩知らずの親不孝な言動を度々していた私だけど、なによりもそれに救われてきたこと、そういう形の愛情で生き続けて来られた事を素直に感謝しないといけないのだ。

だから、援助してもらった分に手をつける前に現状を何とか建て直し、母との旅行のため、あるいは意を決して生きるために始める行動のために母の努力の結晶は残しておきたいと思うのだ。

あ、ドラマ始まってる・・・砂嵐の中・・・
つづく・・・

感動した。今の自分に吸収されるメッセージもたくさんあった。
ドラマに集中しているうちにTVは何とか画像も音声も昨日までの状態に戻っており、濃い台詞も役者の表情も逃さず見られた。重いテーマだけど、気が滅入らない。これだけで救いにはならないだろうけど、誰も言ってくれないことを気付かせてくれるドラマだったと思う。

昨日登録しに行った仕事は曖昧なまま保留になった。それだけで食べてはいけず、しかも先方は自由の利く状態で人を押さえておきたいらしい。
今日一件問合せをした。ずっとやりたいと思い込んできた仕事、しかし生活できそうにない低収入・・・何もしないわけにいかず、一歩を進めた。近々話を聞きに行くことになるだろう。

長期の仕事を辞めてから、いくつかの単発仕事をみつけられたのは、今日の状態から考えると奇跡的だ。明日すぐできる仕事・・・など探してもここ数日みつかりはしない。
自分にできそうな仕事もどんどん見えなくなっていく。こうしてひきこもりが始まるのかもしれない。以前なら息を潜めていたこの部屋に一日中いることにも慣れてきた。他人の囁きにも以前ほど過敏にならなくなってきた。どうしようもないのだ。気にしても。逃げる場所もないのだから。

陽光に誘われて、午後、きりぎりすは外に出た。援助の話だけで気が少し楽になったためか。年金の手続きと不在郵便受け取りと母へのお守りを発送しに出かけた。ついでに大型スーパーへ食料を買いに行った。安売りをやっていて中途半端な時間なのに人がたくさんいた。
安上がりに必要最低限の食材を買えた。野菜類と魚とソーセージ。ありがたいこと。
ただひとつ心配。安いものにはそれなりのリスクがあるはず。99円のホッケとか塩サバとか・・・何か良くないものが使用されている気がしてならない。味も期待できない。とはいえ、安い定食に使われているのはその程度のものだろうからどの道安上がりには違いない。

この日々を無駄にしないように・・・とは思いつつ、不安な状態は何かを生み出す集中力を奪う。大切な命の一日を・・・

捨てようと思って積み上げた本の一番上にあった本を何気に開いた。D・カーネギー「道はひらける」という本。まさに今の自分に必要な内容だ。

みじめな死を想像する。
道が開けた時を想像する。
問題は自分がどちらを望むかだ。単純にわかりきっているようで真実は複雑だ。


おおげさに自分のことだけに頭を悩ませている間、世界では大変な事が起きているらしい。チベットの多くの人々が犠牲になったとか、北京オリンピックを支持したダライ・ラマの発言が抗議されているとか。

詳しい事を知らないまま勘ぐりで言ってしまうが、ダライ・ラマは平和を第一に主張するためにオリンピック開催を支持しているのではないだろうか。
大罪への抗議は必要だと思うが、オリンピックは報復のために左右されるべきではない。中止されて悲しむのは中国よりも、そのために頑張ってきた選手達や楽しみに待っている世界中の一般の人々だからだ。うまくはいえないけれど、ダライ・ラマは対立や抗争より、ずっとずっと楽しいことを好んでいて、なにより平和を望むからこその言動なのだと私は信じたい。
中国がだめなら、設備の整った他の国でやってもいいんじゃないだろうか。

”本当の深い愛を求めるならば、他人を、自分自身をゆるすことだ”
と「あしたの喜多善男」はメッセージをくれた。

食べられる幸せ。眠れる幸せ。悩み立ち止まれる幸せ。ゆるされている幸せ。

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